2015年03月09日

川崎中1殺害事件。

18歳少年の家族はフィリピン人の母親と、再婚相手のトラック運転手をしている父親、母が同じ姉と父の連れ子の姉との4人暮らしだった。小学校の時にいじめに遭っていたという話もある。定時制高校を中退し定職もなくぶらぶらしていた。

こういうプロフィールから、加害少年には殺人に至るような心の歪みがあったのかと考える人もいるだろう。子どもは本来純粋な者で、非行に走るには生育環境の悪化など考慮すべき点がある、だから「更生」のための然るべき教育を受ければ、社会生活を送るに足る成人になるというのが少年法の根拠であると思う。が、本当にそうなのだろうか。

学校でいじめに遭うのは辛いことだ。いじめが原因で人間不信になり大人になっても友人ができない人もいるだろう。荒れる子どももいるだろう。自殺する者がいるくらい非道なものだ。が、それが殺人に結びつくだろうか。

親がフィリピン人や在日韓国人の子どももいる。謂われない差別に苦しんだり怒りを感じたりしている子どももいる。荒れる子もいるだろう。が、それが殺人に結びつくだろうか。

親の虐待を受けている子もいるだろう。それが原因で人を愛せなくなったり、自分の子どもを愛せなかったりすることがある。が、それが殺人に結びつくだろうか。

今回の殺人は憎しみとか衝動とかではないように思うのだ。まだ幼い少年の手足を拘束バンドで固定し身体の自由を奪い、頭を手で動かぬようにして頸動脈にナイフをあてる。首を切断するほどの勢いの傷で、神奈川県警の百戦錬磨の刑事をして、これほどの残虐な遺体は見たことがないと言ったほどだ。

18歳少年はかねてから「人を殺してみたい」と言っていたそうだ。近所の飼い猫を殺してトラブルにもなっていた。酒に酔い中年男性の頭部を鉄パイプで殴り鑑別所送りになっている。この話を聞いて思い出すのは、今年に入って起きた二つの事件だ。一つは佐世保の女子高校生が友人を殺しバラバラにした事件であり、もう一つは名古屋大学女子学生が宗教勧誘の女性を殺害した事件だ。双方とも加害者は殺人に興味を抱き、「人を殺してみたい」と考えていた。

人口の一定数には、人の痛みが想像できない人間や快楽殺人の傾向を持つ者がいる。人の首を締めながら興奮し射精する者もいる。穏やかに市民生活を送る人には信じられないことだが、殺すことそのものに興奮や喜びを感じたりする人間が確かに存在するのである。

人の痛みがわからないというのは比喩的な意味ではなく、本当に肉体を裂く傷みがわからないのだ。想像ができない。18歳少年がそういう性癖を持ち傷めつけるほどに内なるエネルギーが溢れたとしたら、それは被害者少年にとってとてつもない恐怖だったろう。

心優しい人は、「大人たちがなんとかできなかったか」と言う。「地域が守ってあげられなかったか」と悔やむ。しかし、地域コミュニティは幻想だ。高度経済成長の過程で核家族が急増し、家族が望んだのはプライバシーを守るということだ。他人の生活に立ちいらない。自分の子どもに対する関与は好まない。それが我々が望んだ現代社会の家族の位置である。だから子どもを守るのは親だけだ。日々に追われ沢山のサインを見逃してしまった母親と子育てを母親に丸投げした父親が、互いに連携をとり、せめて少年が中学卒業まで西ノ島で生活していたらと思うのは、他人である私の勝手な夢想であった。

ぽちりん↓ありがとうございます。

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posted by 雪あらし。 at 21:47| Comment(4) | TrackBack(0) | 日々の出来事。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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